| 史上希にみる名将同士の戦いということで、やたらと有名なこの合戦だが、もともと、上杉謙信(この時点ではまだ違う名前)と武田信玄が戦うことになった原
 因を作ったのは、謙信と信玄の勢力のあいだに挟まれていた、村上義清という大
 名であった。この村上という男、戦は強かったのだが(実際、信玄を2回ほど追
 い払っている)真田幸隆という信玄股肱の謀臣に内応のオンパレードをくらい、
 北信濃から追い出されてしまったのだ。ほうほうの態で逃げ出した村上は、越後
 の上杉謙信を頼り、旧領土の奪還を哀願した。病的な正義好きであり、前から信
 玄のことが気に喰わなかった謙信は、この提案を快諾し、天文22年(1553)
 9月、川中島で信玄と激突したのが、第一次川中島決戦である。結果的にこの戦
 闘は謙信側が勝利し、北信濃の連中は旧領に戻ることが出来た。
 当然、これを面白く思わない信玄は、弘治元年(1555)、弘治3年(1558)にも川中島に進行、謙信と戦うが、第二次では、肥満公家こと今川義元の仲介で両軍
 撤退をし、第三次に至っては、ほとんど睨み合っていただけで撤退することになって
 しまう。ちなみに武田軍の将、馬場信房が、芋虫(信玄は芋虫大嫌いで、
 姿を見ただけで真っ青になってたらしい)を使って、信玄を窮地に陥れたり
 していたが、全く戦闘に関係ないので割愛することとする。
 ともかく、永禄4年(1561)後世、川中島の戦いと一般的に言われるようになる第四次川中島合戦は、このような前置きを経て始まったのである。
 永禄4年、信玄は川中島に海津城を構築、謙信に「ここは俺の娑婆なんだから、近づくなクソヤロウ」とあからさますぎるほどに喧嘩を吹っ掛けた。正義と戦い
 の神(と本人は信じている)謙信は、この挑発に烈火のごとく怒り、今度こそ信
 玄の首級をあげるべく、川中島への進行を決めた。というよりも謙信としては、
 自国の横っ腹を突ける場所にあるこの城は、なんとしてでも潰さねばならなかっ
 たのである。謙信が出馬したことを知った信玄は、約2万の軍勢で海津城に入っ
 た。謙信はというと、同城から2キロ離れたところにある、妻女山に登り、陣を
 しいた。かくして両軍が対峙するかたちとなった。この対陣で先に動いたのは、
 信玄のほうであった。山本勘助(後年、ヤマカンという言葉の語源となったらし
 い)という片目軍師が提案した啄木鳥戦法のためである。
 啄木鳥戦法とは、部隊を二分し、一方は敵を背面から襲って燻りだす役を行い、敵が打って出たところを本隊とともに挟み撃ちにする、という戦法である。
 別働隊は、芋虫を使役し、信玄に精神的ダメージを与えること甚だしい馬場信房
 に1万2千の軍勢を割いて任せた。暇になった信玄は、兵卒達に飯を食わせるべ
 く火をおこした。それが信玄側にとっては誤算になってしまう。一方、謙信側で
 は武田側から立ち昇る煙を見て、信玄が動く事を察し、妻女山をさっさと下山し、
 信玄の本陣に向って進軍を開始する。よって、武田の別働隊が妻女山に到着した
 時には、謙信の本陣はもぬけの殻であった。次の日の朝、川中島は濃霧に包まれ
 ていた。それのせいで一切の視界がきかず、濃霧が晴れて信玄が気づいた時には
 謙信の本隊は、信玄の本隊の前に布陣していた。謙信がとった布陣は車掛かりの
 陣といい、一度当たった隊を下げ、陣を回転させるように新手を次々と繰り出し
 ていく戦法である。これに対し信玄がとった陣は、鶴翼の陣であった。鶴翼の陣
 とは、ちょうど鳥が翼を広げているように見える陣で、どちらかというと防御用
 の陣であった。謙信隊が急に現れたため、対謙信用に考えていた陣を使用出来な
 かったともいうのだが。謙信は1万3千の軍勢を全て信玄の本隊8千に突撃させ、
 混乱する信玄隊に、これ以上ないほどの痛打を与えた。
 信玄の弟である信繁は、「我が隊は全員討ち死に覚悟のため後詰めは不用。本隊の壊乱を防ぐ事を最優先とせよ」と言い残し、突撃。奮戦のすえに討ち死にした。
 啄木鳥の戦法を提案したヤマカンも、策を見破られた責を感じ、手勢2百を率いて謙信隊に突撃をかけ全身に多数の傷を負い戦死した。
 相次ぐ将の戦死の報に、敗色濃厚となった信玄隊であったが、妻女山に向っていた部隊が取って返し、謙信隊の背後を突いたため辛うじて壊乱を免れた。つまり
 謀らずとも山本勘助が唱えた啄木鳥の戦法の形になったのである。
 そこから先は数で勝り、両面から攻め立てる事ができる信玄側が主導権を握る事になる。反対に損害が増えてきた謙信側は、信玄隊の中央に突撃をかけ、そのま
 まブチ破ると一目散に撤退した。敵前撤退である。ちなみにこのとき、謙信は単騎
 で信玄に突撃し、信玄を何度か斬りつけたらしい。信玄が謙信の刀を軍配で受け
 とめる、あの有名なシーンである。
 結局どちらが勝ったかというと、実に判断が難しいのがこの戦いである。かの織田信長曰く、前半は謙信の勝ちで、後半は信玄の勝ち…ということになるらしい。
 結果的に信玄が川中島を手にしたが、戦略という点では謙信に劣っていた事を認
 めざるをえないだろう。名将同士の戦いにしては、非常に微妙な戦いであったといえる。
 |