×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 


三方原の合戦


家康に過ぎたるもの
本多(平八郎)忠勝

★三方原の合戦序章★

忠勝「家康様!武田軍が、我等の浜松城に近付いています!」

家康「武田ってあの若狭湾らへんに住んでる武田さん?
   えーっと、確か武田信豊だっけ?…ただの弱小大名じゃん。
   そんな慌てなくても大丈夫、あれなら勝てるっぽい」

忠勝「否!そんなマニアック大名ではなく『甲斐の虎』の方です!」

家康「…………武田信玄?」

忠勝「言うまでも無く!」

家康「……………………………逃げよう」

忠勝「えぇー!?戦わないんですか、この意気地なし!!」

家康「何とでも言え!だって勝てないもん!まだ死にたくないもん!」

忠勝「うるさい!この22貫297匁デブめ!!」 ※1貫=約3,75kg

家康「なっ!?ちょっと数値が生々しすぎないか、平八郎!?」

忠勝「紛れ無き事実!」

家康「ち、ちくしょぉぉぉぉぉぉぉー(泣)
   ……と、こんな事をしてる場合じゃない!逃げるぞとにかく!」

忠勝「承知!しかしながら、体が重そうですね家康様!」

家康「お、大きなお世話だッ!!」


実はまだ『松平』
徳川家康


元亀三年(1572)上洛するために武田信玄は甲府を出発した。この『三方
原合戦』は信玄が京都に行くまでの道のりに、家康が守る浜松城があった為
に起きた武田信玄軍二万五千と、徳川家康軍一万一千の戦いである。信玄
側から言わせれば「だって邪魔だったんだもん。そんなトコにいる君が悪いよ」
といった感じだろうか。しかし家康側から見れば「冗談じゃないよ!」である。

この戦の原因は1565年、信玄の嫡子・義信の謀反事件にまでさかのぼる。
武田家は過去、今川家と同盟を組んでいた。しかし、義元が桶狭間で死んだ後
弱体化した今川家なんぞもう用無しだ!と言わんばかりに同盟を破棄してしま
った。ちなみに義信の嫁さんは今川義元の娘。きっとポッチャリ系を通り越し
てさぞ御立派な体格の持ち主だったんだろうなぁ…などと言う良からぬ想像を
してしまうが、本編には一切関係無い。…話ずらしてスミマセン。
閑話休題。要するに信玄は今川との同盟破棄をきっかけに、駿河進攻をもくろ
むようになったのだった。しかし、嫡子・義信はこれに断固反対。父・信玄との
間に亀裂が生じる。そして1565年、とうとう義信の謀反が発覚してしまった。
この事件により目付け役の家老・飯富虎昌(山県昌景の兄)は処刑され、義
信は東光寺に監禁され、自刃したのだった。

さて、このように嫡子・義信を犠牲にまでして得た成果が、たった駿河一国だ
けという事に信玄はブチギレていた。ところが流石は甲斐の虎、ライバル・越
後の龍のように単純な行動しない。信玄は一気に浜松城を攻める事はせず、
秋葉街道を南下してきた軍勢を西に向け、さらに北上、祝田(ほうだ)に向った。
浜松城を攻め、籠城戦にもちこまれるのは厄介と考えたから為だった。確かに
相手をおびき出して殲滅した方が、籠城戦より俄然ラクである。加えて武田家
の騎馬軍は鬼のように強い。もちろん、これを使わない手は無い。

十二月二十二日。家康の軍勢八千、加えて信長の援軍として平手長政らが三千
の兵を率いたので、合わせて一万一千の兵で浜松城を出た。ビビりつつも信玄
が浜松城に攻めてくるのを待っていた家康だったが、信玄の兵が浜松城に攻め
込んでくる気配は無い。それどころか、北へ向って祝田の方へ進んでいる。
これを見て家康は慌てた。信玄の本当の目的が、家康の地元・三河にあると思
ったのだ。一度パニくると弱い家康、大混乱しつつも作戦を立て直す。そして
祝田の坂を向こうに降りるところを追撃する…という戦術を搾り出した。
ところがこれは全て信玄の策であった。信玄は、家康をできるだけ城から離し
ておいた方が、追撃する場合、家康は城まで逃れきれずに途中で撃ち取れると
判断したのだ。しかも祝田の坂を登る途中で逆襲する…という作戦まで考えて
いた。家康の考えは全て、信玄に読まれていたのである。

戦の展開は、まさに信玄の思惑通りに進んだ。戦闘が午後五時に開始される
と武田軍は祝田の坂上まで家康軍を引きつけておいて、一気に家康をたたいた。
武田軍の先陣は小山田信茂と山県昌景、ニ陣が信玄の息子・武田勝頼と馬場信
春、三陣が武田信玄、そして後陣が信玄の娘婿・穴山信君といった布陣である。
一番最初は小山田信茂軍三千VS石川数正軍千二百の衝突だったが、すぐさま
全面展開となり入り乱れた。こうなると兵力の差そのまま、家康が圧倒的に不
利である。さらに地形まで不利となっては家康に勝ち目は無い。結局、家康は
無残にも完敗してしまった。ちなみに援軍として参戦した平手長政は地理勘が
なかった為、哀れにも戦死。徳川軍の戦死者は一万余人と言われている。

この戦の面白いところは『負組家康、その後名声』である。普通、戦で負ける
と名声や評判は落ちる。しかし、逆に家康の評判は良くなった。「天下無敵の
武田軍勢に一歩も引かずに、堂々と渡り合った凄い奴だよね、家康って」と、
各地の列強諸大名を驚倒させたのだ。この世間の評価に一番驚いたのは多分
家康本人だったと思われる。しかし…『チキン野郎』と『肝のすわった偉人』が
紙一重とは…。何とも奇妙、それでいて非常に面白い話だ。

余談だが、家康は武田軍から逃げる際、恐怖の余り脱糞してしまったとの記録
が残っている。…が、のちの征夷大将軍様の名誉とプライバシーに関わる問題
なので、あえてここでは大きく触れない事とする。よいこの皆は、街中で家康を
見かけても、決して指を指したり、「このクソ野郎!(事実)」等と罵らないように
しようネッ☆

★三方原の合戦オマケ★


…保父?
本多(平八郎)忠勝

家康「ぜーぜーハーハー!!…お、追っ手はいないか平八郎!?」

忠勝「そのような姿、確認できず!追っ手はいないようです!」

家康「ホント?あ〜、良かった〜、助かった〜、恐かった〜……
   ………なんか儂の顔、微妙に変わってない?
   っていうか、あからさまにbit数が落ちてるよ!!画像荒ッ!」

忠勝「恐怖のあまりエフェクトまで退化した!と申すのが適当かと!」

家康「うっそーマジで!?しかし、なんでこんな……
   ………なんか平八郎、お前カッコ良くなってない?
   っていうか、あきらかに肌がきめ細かくなってるよ!美肌すぎッ!」

忠勝「御明答!実は、家康様が極秘で製造していた三十歳からの基礎化粧
   品を昨夜こっそり使用したのです!お肌が喜んでおります!」

家康「一滴一滴を見守りつつ、戦中な事さえ忘れて、丹精込めて我が子の
   ように大事に大事に儂が作ってたアレを使ったと言うのか!?」

忠勝「御意!見事使いきらせて頂きました!」

家康「い、戦の最中に何やってんだ平八郎!?戦えよ、この意気地なし!」

忠勝「ほざくな!この24貫103匁デブめ!!」 ※1貫=約3,75kg

家康「なっ!?またソレ!?流行ってんのかソレ!?
   …っていうか数値増えてる!体重の数値が2貫分も増えてる!」

忠勝「いい気味ですな!家康様!ハッハッハ!」

家康「だ、黙ってろッ!!!」


オムツ着用済み
徳川家康


陣中でドモホルン●ンク(らしきもの)を製造する家康こそ
『お前、戦の最中に何やってんだ』。


モドル