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桶狭間の戦い


体脂肪率250%!
今川義元

★桶狭間の戦い序章★

義元「ねぇ雪斎さん、聞いて聞いて。
   ぽっくんさ、なんか織田さんに嫌われてるみたいなんだよ。
   昨日も『デブ』って言われたし」

雪斎「そりゃ、そこまで脂肪を蓄えてたら、嫌われて当然ですよ。
   私も、今ここにいることが苦痛でなりません」

義元「え、今なんかショッキングな発言を…」

雪斎「大体私、史実だと五年前、すでに他界してるんですよ。
   分かりますか?肥満公家もどき様。」

義元「いや、よく分かんない…。
   ねぇ、結局ぽっくん、織田さんと戦った方がいいのかな?」

雪斎「さぁ、どうでしょう。今川家と織田家は軍事力の違いが
   月とスッポンほどありますが、当主がここまで肥満体だとねぇ…」

義元「ちなみに、どっちが『月』なの?ぽっくんが『月』なら戦するけど…」

雪斎「一応、軍事力と体重ではハート様の化身、義元殿が優勢ですな。」

義元「マジで?じゃあ戦しよ。で、織田さんに『デブって言ってすみませんでした。
   むしろ貴方はガリガリです』って言わせよ。よ〜し、頑張るぞ!!」


義元の養育係
太原雪斎


この合戦は、領国尾張に侵入した今川義元を、革命児織田信長が討った
戦いであり、奇襲作戦といえば、この戦いというくらい天下に名高い戦
いである。実際に信長は、この合戦の勝利で一気に有名になり、諸国の
大大名と肩を並べる存在と相成るのだから、まさに歴史の流れを変えた
戦いだと言えるだろう。

そもそも今川義元とは、駿河・遠江を領土とし、のちに徳川幕府を建て
ることになる松平元康を隷属させる、海道一の弓取りと言われた大大名
であった。長年、甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と抗争してきたが、
この頃、やっと和睦が成立し、義元は上洛して天下に号令できる立場を
得た。

そこで永禄元年(1558)より、上洛の途上にある、邪魔な織田信長
の領土への侵攻をはかり、ついに永禄3年5月、2万5千(公称されて
いるのによると、約4万の大軍勢)を率いて、織田方の諸城を一斉に攻
め立てたのである。まもなく鷲津、丸根の2城は陥落、信長は絶体絶命
のピンチに陥った。

はじめ信長は、軍議において、清洲城で籠城する姿勢をみせていたが、
夜中、突如城を出奔する。この時、信長が舞ったのが、かの有名な篤盛
の小唄である。

「人生わずか五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひと
たびこの世に生を受け、滅せぬ者の有るべきか」

舞い終わると信長は、わずか6騎の供を連れ、善照寺砦という拠点に向
かった。殿が城を出奔したと知った家臣達は、急ぎ信長のあとを追った。
その数、約2千。つまり、義元軍の10分の1にも満たない戦力であっ
た。信長は、集まってきた家臣達とともに、善照寺に願掛けをした。その
時、善照寺の奥にある金子が鳴ったのを信長は聞いた。彼は振り返ると、
家臣に向かって大音声でこう言い放った。
「聞いたか!いま、善照寺の奥にある金子が鳴った。分かるか!この戦
いは神ですら我らの味方である!」
大した役者ぶりである。信長は、本当に鳴ったかどうかも分からない、
善照寺の金子の音を、神の意志だと言い放ったのである。後年、神など
は信じていないといった信長は、この頃から無神論者であった。つまり
この場だけ神を信じているふりをしたことになる。彼は神を利用したの
だ。勝つためには神すら利用する、日本史史上ただ一人の天才信長の、
一世一代の勝負はこうして始まったのである。

ちょうどこんなおり、信長のもとに義元の本陣が田楽狭間で休息してい
るという報が入った。信長の脳裏に、一つの秘策が浮かんだ。

この日は暴風雨であった。一寸先も見えぬほどの豪雨のなか、義元の本
隊は、信長の伝令の報告通り、田楽狭間と呼ばれる場所で休憩をとって
いた。連日の勝利に酔い、祝勝をあげていたとも、首実検(討ち取った
首が誰の物であるか調べること)をしていたともいわれているが、この
場合重要なのはそこではなく、義元本隊がまるっきり弛緩していたとい
う事実であった。

「行くぞ!遅れて、後世まで恥を残すな!」
信長はそう言うと、田楽狭間まで駆けた。滝のように降る豪雨のなかを
信長の軍は駆けたのである。田楽狭間に到着した信長軍は、確かにその
眼で、休息している義元軍を見た。
「我、勝てり!」
信長は雄叫びをあげるとともに、2千の兵に突撃を号令したのであった。

一方、義元の軍では、信長が奇襲をかけてくるなど夢にも思っていなか
った。戦闘が起こり、鬨の声があがっても、義元に至っては「兵卒ども
が五月蠅い。行って黙らせてこい」などと言っている始末である。当然
こんな軍が強いわけがない。今川軍は大混乱を起こし、次々と討ち減ら
されていった。大将の義元は、自分の不甲斐なさに歯がみしながらも、
みずから宗三左文字という名の名刀を振るい力戦した。一般的なイメー
ジでは、今川義元は太っていて、馬にすら満足に乗れなかったなどと言
われているが、この局地では向かってきた敵の膝を叩き割り、首を削ご
うとした相手の指を噛み千切るなどと意外な武勇をしめしている。しか
し、やはり数には勝てず、奮戦虚しく討ち死にしてしまった。
まさかの大将の討ち死にに、今川の大軍は領国を目指して壊走してしま
うのであった。

ちなみに、信長が行ったこの戦法は「中入れ」と呼ばれ、数多ある戦術
の中でも屈指の美しさを持つものであった。後代、その見事さ故、この
戦法は流行したが、天才的な軍事術と状況判断能力、そして統率力が必
要なこの戦法を使える将など、そうはいなかったのである。

戦後、三河を本拠地として、今川から独立した家康(元康の「元」は義
元の「元」であったが、元康は以後、この名前を捨て、「徳川家康」と
名乗ることになる)と同盟を組み、武田・北条などに対する防御壁とし
て利用することになる。こうして東が安全(とは一概に言えなかったが)
になったところで、西進を開始。やがて仇敵美濃の斉藤家を滅ぼし上洛
に成功、天下人として飛翔することになるのであった。


★桶狭間の戦いオマケ★


通称:うつけ
織田信長

信長「イエーイ、ウィナーになっちゃったよ俺!さすが俺!ナイスファイト自分!」

家康「おめでとうございます、信長殿!
   しかも、今一番なうい外来語を流暢に使うとは…さすがですな」

信長「…あんた、誰?」

家康「今川さんの元人質、徳川家康です。どうぞよろしく」

信長「えぇー?せっかくデブをやっつけたのに、
   また君みたいなデブと関わるのー?マヂ嫌ぁ。」

家康「なっ!?Σ(゜д゜)」

信長「君みたいな人がいると、二酸化炭素が増えて地球が可愛そうだよね。」

家康「なにこの人!?自然保護団体みたいな事、突然言い出したし!」

信長「会ったばかりで悪いけど、君を殲滅したいと心から思うよ」

家康「会ったばかりで思われちゃったよ、心から!」

信長「でもほら、俺の半分はやさしさで出来てるからさ。
   同盟組んで表面上は仲良くやろう!ヨロシクね!」

家康「(…さ、最悪だ…)」


通称:たぬき
徳川家康


つくづく、家康は苦労人ですなぁ。彼の人生、まさに山あり谷ありです。


モドル